本ホームページはウィットネスリーの著作と地方教会(召会)の真理を紹介します。― 書籍紹介:ウイットネス・リー著 「教会の認識」 第一章 教会とは何か

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ウイットネス・リー著 「教会の認識」 第一章 教会とは何か

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「教会の認識」ウイットネス・リー著 ―― 第一章 教会とは何か


 教会を認識するということは、きわめて実際的な問題です。今日のキリスト教が非常に乱れた状態であるのはだれもが承認する事実です。わたしたちは主を信じて救われたからには、いったい教会とは何であるか、また教会の正しく歩むべき道が何であるかを知らなければなりません。わたしたちが教会を認識しようとするのは、決して単に教会に関する教理を研究しようとするのでなく、わたしたちは救われた後、忠実に主に従って正しい道を歩みたいからです。わたしたちはこの事について簡単に、かいつまんで六篇に分けて話したいと思います。まず第一に「教会とは何か」について話してみましょう。

一 教会は建築物ではありません
二 教会は団体組織ではありません
三 教会は召された会衆です
四 教会はキリストのからだです
五 教会は神の家です


一 教会は建築物ではありません

 キリスト者には、よく不正確な観念があります。それは会堂(キリスト教の会堂)を教会としていることです。また会堂に行くことを教会に行くことだと思っていることです。英語のChurch(教会)という文字はよく会堂だと思われています。これは非常に間違った考えです。会堂、伝道所、集会所、これらのものはすべて教会ではありません。聖書の中でわたしたちに示されている教会とは「おそれを感じる」また「祈り」のできる(使徒行伝五・一一一二・五)生けるものであり、決してそれらの命のない建物ではないのです。命のないそれらの建物をもって教会とするのは、単なる錯誤であるばかりでなく、むしろ異端に近いことです。ですから、これは一種の言い方にすぎないとか、小さなことだからかまわないなどというささやかな問題ではありません。

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二 教会は団体組織ではありません

 教会は物質的な建築物でないばかりか、またキリスト教のいわゆる形式的な団体組織でもありません。現在多くあるミッション、伝道会、あるいは何々会、何々派というようなものを教会と言うことはできません。今日どこの都市に行っても、長老派、バプテスト派、ルーテル派、ウェスレー派、など多くの宗派、または伝道会をみることができますが、これらのキリスト教の組織や団体はやはり教会ではないのです。聖書では、教会は一つのからだである(エペソ一・二三コロサイ一・一八)と言っています。一つのからだとは一つの命のある機体、すなわち生きた有機体であり、単に一つの死んだ組織ではありません。これらのキリスト教団体は宗教組織であり、形式を重んじ命を軽んじています。ですから、これらの宗教組織を教会とするのもまた間違いなのです。

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三 教会は召された会衆です

 ギリシャ語の「教会」(マタイ一六・一八一八・一七)は「エクレシャ」と言い、二つの言葉が組み合わされたものです。「エク」は「出てきた」、「クレシャ」は「召された」という意味で、この二つの字が合わされて「召し出された会衆」あるいは「召された人の集まり」という意味になります。この字義によれば、教会とはすなわち、神によってこの世から一部の人たちが召し出されて共に集まったということになります。

旧約聖書では、教会についてはっきり語られてはいませんが、しかし一枚の絵として教会の状態が示されています。この絵はエジプトを出たイスラエル人が、シナイの荒野で神の編成を受け、組み合わされて一つとなった十二部族が幕屋を中心にしてその周囲に宿営し(民数記二章)共に神の前に集まって一つの体系を作っているのを物語っています。それがすなわち、エクレシャです。召し出された人々の集まりです。ですから新約でも彼らをエクレシャと言っています(使徒行伝七・三八「集会」原文は「エクレシャ」)。一面彼らは神がエジプト(エジプトはこの世を予表する)から召し出したものであり、別の面から言えば、彼らはまた神の前に集合した会衆でもあります。もっとも当時のイスラエル人の間には、まだ教会の性質はありませんでした。しかし彼らは一枚の絵です。神のあがないと救いの大能によって、世の人々の中から召し出された会衆が一つとなって、神の前に集まったものが教会であると示しているのです。これがすなわち教会の一面の意義です。

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四 教会はキリストのからだです

 聖書の中に、もっぱら教会を言っている書があります。それは「エペソ人への手紙」です。 この書の最初の一章で教会はキリストのからだであると言っています。これは実に神聖な啓示であり、教会とは何であるかを透徹に正しく説明しています。いまこれを六項目に分けて話しましょう。

(一)キリストの豊満です

 エペソ人への手紙第一章では、教会はキリストのからだであると言い、また教会は「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたの豊満」(原文)と言っています。 これはわたしたちに、教会というこのからだが、キリストの豊満だということを示しています。だれでも、人のからだはその人の豊満を示すものだということがわかるでしょう。人を識別するものは、その人の顔によります。もし人の頭を除いたら、だれがだれであるかを見わけることは容易ではないでしょう。ですから人を識別するには頭と顔とによります。しかし人の豊かさはそのからだにあります。もし人にからだがなく、ただ頭だけであったなら、その人の豊満について何も言えません。人の豊満はその人のからだから表わされます。

 人の豊満とからだは、別箇の事柄ではなく一つのものです。人の豊かさはその人のからだにひとしいのです。その人のからだはその人の豊かさなのです。クリスチャンたちは平常、教会はキリストのからだであると言っていますが、そのほとんどが機能と働きを重要視するだけです。キリストのからだはその豊満であると理解する人は少ないのです。しかし教会についてしるされているエペソ人への手紙で、教会は.キリストのからだであると言っているのは、機能と働きに重きを置いているのではなく、豊満と建てることに重きが置かれているのです。豊満はからだの表われであり、建てるのはその豊満のためです。もし建造されなければ豊満は表われません。

 願わくは、主がここでわたしたちの感覚を増し加えて下さいますように。わたしたちが教会はキリストのからだであると言うとき、まずその豊満を感じることができますように。教会がキリストのからだであるとは、教会は霊的なものであり、命のあるものであり、天上のものであり、そしてキリストに対して働きのあるものであり、さらにキリストの豊満そのものであるということです。教会がキリストの豊満なのです。キリストの豊満、その豊満のなかから満ちあふれたものが教会です。宇宙の中で、もしキリストが教会をもたなかったら、彼の豊満を表わすことができません。キリストの豊満が表われたのが彼のからだであり、教会なのです。

 聖書で、教会はキリストのからだであると言っている大切な意味は、働きに重点があるのでなく彼の豊満にあるのです。働きは人間の生まれながらの観念で了解できることですが、キリストの豊満は神の啓示によらなければなりません。神の啓示がなくては、からだが豊満であることを了解することはできません。

 ひとりの人がここに立っているとします。まず人々から見えるのは、その人の能力や働きではなくて、成り立っているからだ全体なのです。これが豊かさです。写真をとるとき、頭だけをとったらどう見えるでしょう。もしあなたがひとりひとりの頭だけを長椅子の上に並べたら美しく見えるでしょうか。美しく見えるどころか、むしろ恐ろしさを感じさせるでしょう。しかしいま、あなたがたひとりびとりが全く整えられていて、高く、大きく、豊かさに満ちてここにすわっているとすれば、大変立派に見えるものです。人にからだがなかったら、ひとりの人問には見えまぜん。教会もキリストにとっては、これと同じことです。教会がキリストの豊満であるということは、人のからだが人の豊満であるのと同じです。

 エペソ人への手紙第一章で、キリストは「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかた」であると言っています。この「すべて」を今日、ある人は「パン」と訳しています。たとえば「パン・アメリカン航空会社」(Pan American Airline)この中の「Pan」という字はギリシャ語の「すべて」です。キリストはすべてのうちでPan(すべて)です。 言い換えれば、すべてのうちにあるものはみなキリストです。キリストがいかに豊かであるかがわかるではありませんか。

 エペソ人への手紙第一章二十三節の前半では、キリストがいかに大きく高いかをわたしたちに示しています。そこでは神が彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、またこの世ばかりでなく、来たるべき世においても唱えられるあらゆる名の上におかれたとあります。これはキリストの大きさ、高さ、超越性を物語るものです。それだけでなく、神はまたすべてをキリストの足の下に従わせ、彼をすべてのかしら(頭)となさいました。彼はすべての上におかれ、すべては彼の下にあります。彼は万有のかしらです。彼の偉大さと超越性をわたしたちが完全に了解するのは、とても不可能なことです。

 兄弟姉妹たちよ、わたしたちの属している主が、いかに大きく高く超越しておられるかを、わたしたちは知らなければなりません。彼の大きさ、高さ、超越性を知って、はじめて彼の豊満を知ることができるのです。彼のこの豊満を表わすのに一つの大きな器が必要です。この器がすなわち教会です。今日に至るまで教会がいまだに彼の豊満を表わすことができないのは、教会が完全に建てられていないからです。その時が来れば、すべての選ばれた人々の数が満ちて、そこではじめて教会が真に一つの豊満となります。教会は、いまはまだキリストの豊満に至ろうとして成長しているところです。ですから、もっと多くの人が救われること、そしてもっと多くの地方教会が必要なのです。キリストはあまりにも豊かで、満ちみちているので、これ以上、大きくなることのできないほどの一つの大きな器によって表わされようとしているのです。この器が教会です。ですから教会はキリストの豊満であるということは、あまりにも偉大な事実です。

 主に感謝と賛美をささげます。サタンは教会を破壊し、分裂の働きをしています。しかしそれでもわたしたちはこの地上における教会がいかに大きく、豊かな存在であるかを見ることができます。サタンがいかに分裂と破壊を成し遂げたとしても、わたしたちは教会の偉大な性質と偉大な状態を承認せざるを得ません。これこそキリストの豊満なのです。

(二)キリストから出たものです

 教会というこのからだは、絶対にキリストから出たものです。聖書に中では、神は一つの予表を用いてこのことをはっきりと言い表しておられます。そればかりかどのような別の見方も許さない明白な言い方で言っておられます。それがエバの造られた物語です(創世記二・二一-二四)。エペソ人への手紙第一章で、教会はキリストのからだであり、キリストの豊満であると言ったあと、第五章三十節-三十二節で、このからだがどのようにして産出したかを言っています。そこではエバとアダムの物語が全く教会とキリストとの関係を予表していることをわたしたちに示しています。エバがアダムから出たのと同様な方法で、教会もキリストから出たのです。エバとアダムのふたりが一体であると同様に、教会とキリストの二者も一体なのです。エバはアダムから出たけれども、決してアダムと分かれたのではなくあくまでもアダムに属しています。エバはもともとアダムの一部だからです。教会とキリストもまた同様です。

今日の人たちは、教会をあまりにも間違った目で見ています。教会を単なる人の群れ、また組織とした人間的な考え方は完全な錯誤です。わたしたちは教会がキリストから出たものであるということを、もっと確実に知らなければなりません。当時、神がアダムのためにひとりの配偶者を造られたとき、神はアダムの脇をさき、彼のあばら骨の一つを取ってエバを造ったのです。ですから、エバは完全にアダムから出たものです。同様に、主が十字架上に釘づけられたとき、その脇はさかれ、血と水が流れ出ました。血は罪をあがなうためであり、水は命を分け与えるためです。主から流れ出たこの命がわたしたちの中にはいって、教会を産出したのです。

 わたしたち救われた者はみな、内にキリストの一部をもっています。もし内にキリストがなければ、わたしたちはキリストに属していると言えませんし、救われた者とも言えません。 わたしたちはすでに救われた者ですから、それぞれみな一部分のキリストをもっています。 教会とは、わたしたちの内なるキリストをさしているのです。あなたの内の一部分のキリストと、わたしの内のキリストの一部分、そして彼の内なるキリストの一部分と、すべてのキリストに属する者たちの内なるキリストを加えたのが、すなわち教会にひとしいのです。だからコロサイ人への手紙第三章で、教会はひとりの新しい人だと言っています。この新しい人のうちには、ギリシャ人もなく、ユダヤ人もなく、その他いかなる者もないのです。この新しい人である教会の中は、ただキリストだけです。教会は決して、あなたにわたしを加え、さらに彼を加えたものでなく、あなたの内なるキリストにわたしの内なるキリスト、そして彼の内なるキリストを加えたものなのです。これが教会です。

 ですから、わたしたち人間の生まれながらのものを教会に持ち込むわけにはいかないのです。教会の中にはあなたもわたしもなく、日本人も中国人もありません。ただキリストがあるだけです。コロサイ人への手紙第三章十一節、口語訳では「そこにはもはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない」と言っていますが、原文では「差別がない」と言わずに「無い」と言っています。教会の中には、これもなくあれもなく、ただキリストがあるだけです。

 もし救われた人たちが、教会についてこの程度にまで認識することができるならば、これから述べる教会の立場、教会の道について、容易に理解ができると思います。教会の立場や道についてどうしてもはっきりしないのは、人間的なものが教会の中に混じり込んでいるからです。わたしたちは必ず十字架によって、人間的なものを教会から取り去らなければなりません。ある兄弟が言うように、十字架は一つのプラスの記号(十)ではありますが、厳密に言えば、十字架は教会のために信者の上でマイナスの働きをします。十字架は人間の古い部分を教会の中から取り除くものです。もしすべての信者がアダムに属する成分を取り除き、そして内なるキリストを加えていけば、それがすなわち教会です。ですから教会は完全にキリストから出たものです。

(三) キリストと一体です

 教会はキリストから出たものですが、教会とキリストは決して分かれたものではありません。エバがアダムから出、そしてまたアダムに帰し、アダムと一体となったのと同様に、教会とキリストも一体です(エペソ五・三一−三二)。わたしたちはキリストから出てきたのですから、キリストはキリストで、わたしたちはわたしたちだと決して思ってはなりません。 そうではなく、教会とキリストはやはり一つであり一体です。これは人の頭では理解しにくいことですが、もし神の啓示があれば、これがいかに真実なことかを悟ることができます。 教会はキリストから出てきて、またキリストの内に帰したのです。ですから教会とキリストは完全に一つです。教会のある種の状態や挙動、働きが、もしキリストを離脱しているなら、その時はもはや教会でなくなります。わたしたちが教会の問題に触れるとき、常に一つのためしを必要とします。それは、いったいキリストがその内におられるか否か、キリストから出たか否か、キリストの内にあるか否か、キリストにつながっているか否かです。これらのことを問うなら、これは一つの非常にきびしいためしとして臨んできます。もしこのためしに合格しないなら、それはもはや教会ではなく、キリストのからだではありません。それはキリスト教の組織です。教会とはキリストのからだであり、完全にキリストから出て、また完全にキリストに帰し、キリストと結ばれて一体となったものです。

(四) すなわちキリストです

 コリント人への第一の手紙第十二章十二節は明らかに、このからだである教会をさして言っています。そこでは、このからだが教会であると言わずに、キリストであると言っています(原文には「の場合」という三字がない)。なぜなら厳密に言えば、教会とはキリストの拡大だからです。キリストを拡大したものが教会ですから、教会はキリストなのです。わたしたちが教会の立場、教会の道を断定するには、すべてこの認識に基づかなければなりません。 ああ、兄弟姉妹たちよ、今日地上における教会はキリストご自身なのです。これはなんと厳粛なことでしょう。もし、この光があり、啓示があるならば、キリスト以外のものを教会に持ち込むことができるでしょうか。絶対にできないはずです。もしこの啓示があるなら、教会問題や教会内のさまざまな事柄にぶつかるときに、必ず十字架にぶつかるでしょう。十字架はそこで、どれがアダムに属し、どれがキリストに属するか、またどれがアダムのもので、どれがキリストのものかを分けてくれるでしょう。十字架は、アダムとアダムに属するものを全部外側に引き離します。また、キリストとキリストに属するものだけを教会の中に加えてくれるでしょう。その結果、教会のいっさいがキリストご自身となるのです。

 あなたにこの光があれば、ローマ・力トリックを教会であると承認することができなくなります。またプロテスタントをも教会として承認することができなくなります。長老派や、バプテスト派、また他のいかなる派があっても、それらは教会ではありません。それはキリスト教の組織、宗教団体にすぎないのです。もちろんそれらの中にもキリストに属する人たちがいます。しかしそれらの団体、組織である派そのものは、決してキリストに属するものではありません。それは人間的なものであり、この世的なものです。 兄弟姉妹たちよ、わたしたちが今日、ローマ・カトリック教を離れ、プロテスタントを離れ、キリスト教の各宗派、各団体から離れたのは、単にそれらが聖書に合わないからというだけではありません。それらがキリストに属するものでないからです。わたしはここであかしをすることができます。四十数年前に、わたしが宗派から離脱したとき、わたしは宗派の中には多くの誤りがあるから離脱すべきだと思ったにすぎません。ところがそれから七、八年後わたしは、たとい宗派の中に誤りがなくても、その立場が誤っているのであるから離脱すべきであることを見いだしました。それらの分派的な立場は分裂した立場です。それから二、三年すぎてわたしはプロテスタントの各宗派の立場が誤りであるばかりでなく、そのような宗派の組織はキリストに属するものではなく、また内にキリストをもつものではないことを見いだしたのです。わたしはそれらの中の人たちは救われていて、内にキリストを宿していることを認めますが、しかし彼らの派そのものの組織の中にはキリストがなく、またキリストはそれらの派の中では地位がないのです。それらの「派」の組織の中には、人の組織と、この世のものが満ちています。ですから、わたしたちが分派、組織されたキリスト教の各宗派を離脱したのは、単に真理に合わないからではなく、さらにそれらの組織の中にキリストがないからだと、一九三五年前後のころよく言っていました。それらはキリストのからだでなく、キリストの有機体でなく、キリスト教の組織にすぎないのです。

 わたしたちはここで、教会はキリストご自身であり、キリストのからだであり、またキリストの有機体であることを見いださなければなりません。この中では、組織や人為的な取り決めに頼らず、ただ生けるキリストおひとりに頼るのです。もし教会の中のある種の状態が人を霊的にならせず、また人が霊的機能を表わそうとするとき、さまたげとなるならば、それはすでに誤りであり、堕落したものであると知らなければなりません。教会の中では、兄弟姉妹に自分の霊的深みを表わさせ、霊的な機能を発揮させる絶対的な機会を与えなければなりません。もちろん組み合わせがあるべきですが、いかなる制限もあるべきではありません。聖霊に絶対的自由を与え、人のすべての霊的状態をよく表わし、またすべての霊的機能を表わさなければなりません。それでこそ、これが組織ではなく、一つの生機体であり、その生機体がすなわちキリストのからだであり、キリストご自身であることを証明するのです。

(五) 聖霊のバプテスマを受けて成ったものです

 教会は一個人でなく、また数人でもなく、数えきれないほどの大勢の人たちから成ったものです。この数えきれないほど多くの人たちが一つのからだとなることができるのは、みんなキリストから出たものだからというだけではなく、みんな霊のバプテスマを受けて一つのからだとなったからです。これがコリント人への第一の手紙第十二章十三節で言っていることです。あなたにキリストの命があるからキリストに属し、わたしもキリストの命をもっているからキリストに属し、また救われたすべての人もみなキリストの命があるので、みなキリストに属するのです。それだけでなく、また聖霊はわたしたちキリストに属する者を、霊の中にバプテスマして一つのからだとされたのです。命はわたしたちをキリストに属させ、聖霊はわたしたちをお互いに結び合わせます。わたしたちに命があればキリストに属し、わたしたちが聖霊の中におればお互いに結び合いますから一つのからだとなるのです。 教会という一つのからだは、第一にキリストから出たものであり、第二に聖霊によってバプテスマされて成り立ったものです。すなわちキリストから出てきて、ふたたび聖霊の中にバプテスマされて、はじめて教会が一つのからだとなるわけです。この二つのうちどれも欠くことができません。キリストから出た命に欠けているならば教会ではなく、すべての聖徒たちをバプテスマしてキリストのからだにはいらせる聖霊に欠けているならば、やはり教会ではないのです。

 わたしたちは「命のうちに生きなければならない」とよく言いますが、それだけでは足りません。それらは、わたしたちとキリストとの関係に重きをおいて言っているにすぎないのです。わたしたちはなお聖霊のうちに生きることを学ばなければなりません。聖霊のうちにあってこそ、はじめてすべての聖徒と互いに連結することができるからです。一面、わたしたちはキリストから出た命を必要とします。そしてもう一面、わたしたちをバプテスマしてキリストのからだにはいらせる聖霊が必要なのです。この「出てきた」と「バプテスマされてはいる」ということが、キリストのからだを成り立たせるのです。ですからわたしたちが真実に教会の中に生きていくのでしたら、一面キリストの命によって生きることと、もう一面、この聖霊の中に生きることが必要となるのです。わたしたちの働き、行動はすべて、この聖霊の中においてなされることが必要なのです。ここまで話せば、教会とはいったい何であるかをだいたい認識されたことと思います。教会とはこのように高く、奧義的なものです。 教会とはこのように天に属するものであり、命のあるものであり、また霊的なものなのです。

(六) キリストの表われです

 教会であるこのからだは当然キリストを現わすべきです。キリストはこのからだによってご自身を現わされます。人が自分を表わすのにはからだによる以外に方法がありません。もしからだがなくて魂と霊だけなら何によって表わすのでしょう。同じように、キリストがこの字宙の中で、地上の多くの人々の間で、またこの時代で、ご自身を現わそうとするならば、教会というこのからだがどうしても必要なのです。教会のあるところにキリストがあり、教会のあるところにはキリストの現われがあるのです。キリストの現われと教会とは、どうしても離すことのできない関係にあります。なぜなら教会はキリストの豊かさであり、キリストのからだであるからです。ですから教会はキリストの現われです。

 しかしここで覚えていただきたいことは、ローマ・カトリックはキリストの現われでなく、プロテスタントの各宗派もやはりキリストの現われではないということです。なぜなら、それらはキリストのからだではなく、人為的な組織であり宗教団体だからです。それらの中には、キリストの成分が少しもなく、またキリストの地位もないのです。したがってキリストの現われではないのです。ただキリストのからだにだけ、キリストが満ちみちていて、すべてがキリストなのです。このようなからだ、このような教会、これこそキリストの現われです。

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五 教会は神の家です

 テモテへの第一の手紙第三章十五節では、教会は神の家であると言っています。聖書の中で多くの場合、神の家について言っていますが、日本語の聖書では神の宮と訳されています。旧約聖書の幕屋と宮とはみな神の家のことです(士師記一八列王紀上六・一)。そして、それはみな教会を予表しているのです。それは教会が神にとっては、旧約時代の幕屋と宮と同様に神の家であると言っているのです。これについては、少なくとも二つの重要な意味があります。

(一) 神の住まいです

 家は人の住まいです。そして教会は神の家です。すなわち地上での神の住まいです。神がその中に安らかに住み、その中をご自身の思うままにすることのできる所です。ですから、エペソ人への手紙第二章二十二節では、教会は「霊なる神の住まい」と言っています。あなたがある集会に出席したとします。そしてそこが果たして教会かどうか見わけたいなら、神がその中に安らかに住むことができるかどうか、神ご自身がその中に身を寄せることができるかどうか、その中でいこいの場を得ておられるかどうかを見ればよいのです。もしそれができればそれは教会であり、教会の性質を失っていないことになります。もしそれができなければ、もはや教会ではなく、単なる宗教団体にすぎないのです。

(二) 神の現われる場所です

 家は、人が自分を表わすのに最もよい場所です。あなたの家ほどあなたを完全に表わす場所はありません。よそでは話すことのできない話でも、また話す勇気のない話でも、家の中では安心して話すことができます。よそでは自分の気持を思うように発表できなくても、自分の家の中ではできるものです。よそでは都合の悪いことも、家では都合よくできるものです。ですから家というものは、人にとって最も自分を表わすことのできる場所なのです。

一軒の家に、日本人が来て住めば日本人の様式が表われます。中国人が住めば中国人らしい様子が、アメリカ人が住めばアメリカ人らしい様子が表われます。あなたはその家のありさまを見れば、その家にどんな人が住んでいるかを判断することができます。きれい好きな人か、それともだらしない人か、住んでいる家を見ればすぐわかります。高尚な人であるかどうかを知るには必ずしもその人を見る必要はありません。その住まいを見れば必ず見わけることができます。ですから多くの場合、ひとりの人を知りたいなら、その人の家の中にはいって見ることです。ある人は上辺は美しく飾っているけれども、家の中は非常にきたないです。ある人は着物をきちんと着ていて、表面は立派な店の主人のようでも、家の中は大変貧しい場合もあります。ですから人は家を見てはじめて、その人となりを知ることができるのです。家というものは実に自分を表わす場所であります。

教会は神の家であり、また地上で神がご白身を表わされる場所でもあります。テモテへの第一の手紙第三章十六節で、前の十五節に続いてわたしたちに、教会とは実に一つの偉大な信心の奥義、すなわち「神が肉においてあらわれたもの」だと言っています。神は教会を家として宿り、いこいの場所を得られるだけでなく、教会の中でご自身を表わされるのです。 神は教会の中で、ご自身の計画を実行し、御心を発表し、栄光なる麗しさを表わされるのです。神ご自身のすべてと、彼のわざ、そして彼が得ようとされるものの全部を、教会というこの家の中で現わされるのです。

それですから、教会は一面、キリストにとっては一つのからだであり、一つの豊かさであり、一つの現われです。もう一面、神にとっては一つの家であり、一つの住まいであり、また一つの現われです。キリストと神が共にこの中で、ご自身を現わすことができるのです。

ウイットネス・リー著教会の認識/第一章から抜粋

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